天空の鉱山町・小串硫黄鉱山
アチャとダンベの国境(毛無峠)
その1
Visited : 2007/10/15
Update : 2007/10/26
万座道路(万座峠付近)
 2007年10月14日、友人らと共に軽井沢に来ていた僕は、翌日の15日、一人早起きをして、軽井沢から万座温泉までを早朝ドライブした。目的地の万座温泉に到着し、さて、このまま軽井沢に戻ろうか、もう少し付近を走ろうか、地図を見て思案していた。そんな時、たまたま「毛無峠」という地名が僕の目に留まった。なんとも変わった名前の峠だったので、足を伸ばしてみることにした。万座温泉からは10km程の距離だ。

 ■毛無峠周辺地図(Mapion)
 万座温泉から長野県高山村に抜ける万座道路に入る。青空の下、高原道路を走るのはとても気持ちが良い。万座峠で車を停め、雄大な横手山をしばし眺め、秋の到来を満喫する。

 万座道路の途中から左の枝道に入り、毛無峠を目指す。道路の幅は、乗用車が1台通れる程の狭さだ。対向車の無いことを確認しながら先へと進む。
万座峠から眺めた横手山
破風岳(標高1,999m)とそれに連なる山並み
 幸い、早朝なので、峠から帰って来る車は1台もいない。途中から、進行方向右手に破風岳を頂点とする雄大な山並みが現れてくる。朝陽が山並みを染めて、なかなかダイナミックな景色だ。
 万座温泉から20分程の時間で、毛無峠に到着した。車から出ると寒い! 車の外気温計を見ると6℃だった。毛無峠の標高は1,823メートル、幸い天気は良いので眺めは良いのだが、風が強く、薄着で来てしまった僕は、震えながら峠を散策する羽目になる。
毛無峠(標高1,823m)から眺めた破風岳
峠から未舗装の道路が群馬県側に延びている
(一般車は通行禁止)
 一般車両の通行はここまでだが、峠からは未舗装の車道が群馬県側に向かって延びている(左と下の写真)。地図を確認した限りでは、この道路は硫黄鉱山跡に行く道だろう。

 峠を見渡すと、いくつもの古ぼけた鉄塔が建っていた。これはなんの目的で建てられたものなのか、この時点では皆目わからなかった。
 峠をウロウロしていると、1枚の古ぼけた道標が目に留まった。ベニヤ板にペンキで描かれたいかにも頼りない道標で、文字もだいぶ消えかかっていた。
峠から未舗装の道路が群馬県側に延びている
(一般車は通行禁止)
峠の道標
 左の写真がその道標だが、写真では判りづらいので、道標に書かれていた文字を下記に転記する。

 「アチャとダンベの国境」って何? 考えてもまったく意味が判らない。でも、言葉の雰囲気がとても心地良いし、とても気になる。よし、帰ってから調べてみよう。忘れないように道標をカメラにおさめた。

 この道標には、もう一つ気になる言葉が書いてあった。それは「小串御地蔵堂参道約4km」の文字だった。どうしてこんな山奥に御地蔵堂があるのだろう? いくら考えても判る訳もなく、これも帰宅後に調べることにした。

 峠にはもう少し留まりたかったのだが、9時までに軽井沢のホテルに戻らねばならなかったので、後ろ髪を引かれながら、峠を後にした。

 翌日、自宅に戻り、早速、あの道標に書かれていた「アチャとダンベの国境」の意味を調べてみた。
峠からの帰り道での風景
この道を通って峠に来た
 「アチャ」は長野の方言で、「あのね」などと相手に問いかける時に使う言葉だそうだ。一方、「ダンベ」は、群馬県など北関東で語尾に使われる「〜だべ」を意味するらしい。ようするに、両県の国境を、両県の方言を使って表したユニークな名前だということがわかった。なかなか洒落たネーミングだ。

 峠の近くにあった「硫黄鉱山跡」のことも調べてみると、僕の知らない意外な事実が次々に判ってきた。この鉱山の名称は「小串硫黄鉱山」という。昭和4に創業、昭和46年に閉山、42年間の長きに渡って硫黄を産出していたそうだ。鉱山そのものは群馬県側にあるが、硫黄の搬出は鉄索(ロープウェイ)を使って長野県側へ行われていた。峠に残っていたあの鉄塔は、この鉄索の支柱だったのだ。この鉄索は小串牽道(おぐしさくどう)と呼ばれ、長さは10.8kmもあったそうだ。

 また、標高1,600mに位置するこの鉱山には、ピーク時に約2,000人もの人々が生活していたという。
 鉱山創業の当時、現在のような林道はまったくなく、長野県高山村から、約13kmもの獣道を徒歩で上り下りしていたそうで、現在の林道ができたのは、なんと昭和34年になってからだそうである。冬になれば、下界との交通もままならなかっただろう。そんな閉ざされた山奥に、2,000人もの人々が生活していたとは・・・。まさに、天空の地・アンデスの日本版ではないか。

 冬期の毛無峠は雪崩の巣だったようで、この危険な往来を避ける為、昭和28年に、峠の直下に長さ1.3kmの隧道(ずいどう)を完成させたそうだ。僕はこの事実を知るにつれ、益々この鉱山の歴史に引きつけられていった。
毛無峠への枝道
紅葉が鮮やかだった
 そして、衝撃的な事実を知ることになる。昭和12年11月11日、この天空の鉱山町で大規模な地滑りが発生し、鉱山町が飲み込まれ、245名もの死者を出すという大惨事が起きている。数十人の子供も犠牲になったそうだ。鉱山の操業を停止し、翌年3月まで行方不明者の捜索を賢明に行っている。しかし、全員の発見には至らなかったようで、今でも幾人かはこの地に眠っているそうだ。この災害で亡くなられた方々を追悼する為、昭和13年、同鉱山内に地蔵尊が建立された。峠の道標に書かれていた「小串御地蔵堂参道約4km」の意味がようやく判った。

 峠の道標に書かれていた意味不明な言葉がきっかけで、この地の歴史を少しだけだが、垣間見ることができた。あの道標に書かれていた「アチャとダンベの国境」という消えかかった文字は、「小串硫黄鉱山の歴史を忘れないでくれ」 と、問いかけているように思えてならない。

 この知り得た事実を、このまま僕の記憶の中にそっと閉じこめてしまうことは、なにか自分が罪人であるかのような錯覚にとらわれてしまった。やはり、この事実を背負った上で、もう一度あの場所に立ってみよう。そう思い始めていた。

 そして、初めてここを訪れてから数週間後のある日、僕は再び、アチャとダンベの国境に立つことになる・・・。

 (その2へ続く)
小串硫黄鉱山周辺マップ
(クリックすると拡大画像が表示されます)
その2
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