天空の鉱山町・小串硫黄鉱山
アチャとダンベの国境(毛無峠)
その2
Visited : 2007/10/28
Update : 2007/10/28
大前須坂線の基部付近
 2007年10月28日、2週間ぶりに再び毛無峠(けなしとうげ)を訪れた。前日の27日、雨の中、長野市まで車で走った。台風の影響からか、結構な降雨量だった。毛無峠へ至る大前須坂線は、土砂崩れの危険性から、降雨量が多いと直ぐに通行止めになる。はたして明日は大丈夫なのだろうかと不安を抱えながら、長野市内に入った。今回は友人を誘って二人で現地入りした。

 翌朝の28日は、5時に起床して、6時にはホテルを後にする。まだ薄暗かったが、空は晴れているので、安堵しながら車を先へと進めた。6時40分、大前須坂線の起点に到着した。幸い、入口のゲートは開いていた。ゲート横には11月16日〜4月28日まで冬期封鎖と表示されていた。この道路に立ち入れるのも、後2週間ほどだ。
 道路にはかなりの落ち葉が散乱しており、気を付けないとスリップしそうなほどだ。高度を上げるにつれ、綺麗な紅葉が広がってくる。湯峰のU字コーナーで少し休憩を取る。眼下には山田温泉の街が良く見える。高度を上げるにつれ、あたりは霧に包まれてくる。 
大前須坂線のU字コーナー(湯峰)
大前須坂線の上部
 それにしても、凄い落ち葉だ。事故でも起こすと洒落にならないので慎重に先へと進んだ。
 出発から1時間15分後の7時15分に毛無峠に到着した。まだ誰もいなかった。峠はガスっていた。車を止め、外に出ると、もの凄い風が吹いていて、息もままならない程だった。加えてかなり寒い。あわてて車内に戻る。

 群馬県側のゲートまで行くと、なぜかゲートが開いていた。予定では、ここに車を駐車し、4kmの道のりを徒歩で下って鉱山跡に行くつもりだったが、車で群馬県側い入り、道路の状態を確認してみた。デコボコ道だが、どうにか行けそうな状態だったので、鉱山跡まで車で下ることにした。
毛無峠の鉄索
鉱山跡へ下る途中から見上げた毛無峠
 途中の道路上に、、一ヶ所、石畳が敷かれていた。恐らく、当時のものだろう。

途中の道路にあった石畳
 7時42分、鉱山跡地に無事到着した。峠のほうをみあげると徐々に青空が広がりつつあり、破風岳のピークも顔を出しつつあった。

 手前の広場に車を停め、まずは御地蔵堂にお参りに行くことにした。ザックに水、お線香が入っていることを確認し、持参した菊の花を持って、御地蔵堂への車道を歩いて登った。
鉱山跡地の広場から破風岳を望む
御地蔵堂全景
 御地蔵堂は、近年、立て替えられているのでとても綺麗な建物だった。
 持参したお花を献花し、お水を差す。お線香に火を付け、地滑りで亡くなられた245名の方々のご冥福を祈った。
御地蔵堂全景
御地蔵様
  寄付ができるようになっていたので、お賽銭箱に気持ち程度だが、寄付させて頂いた。
 御地蔵堂の中には、当時の写真が2枚、飾られていた。そのうちの1枚が右の画像である。昭和33年1月に撮影されたものであることが記載されていた。

 鉱山に働く人々の住まいが良く見て取れる。また、背後の毛無峠への鉄索も見える。写真の右端の丘の上が鉱山の作業所だと思われる。
昭和33年1月当時の小串夜景
(画像上をクリックすると拡大画像が表示されます)
昭和12年11月の地滑り跡を示す案内板
 御地蔵堂の脇に、「小串変災発生跡地帯、昭和12年11月11日、午後3時30分」と書かれた案内板があった。案内板が示す矢印方向に少し歩いていくと、上部の斜面に崩落した跡が見て取れる。
 このあたり一帯が地滑りし、245名の尊い命を飲み込んだのだろう。崩落の様子から、かなり大規模な地滑りであったであろうことが想像できた。

 (続く)
昭和12年11月の地滑り発生地帯
その3
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