| 西暦 |
邦暦 |
年齢 |
主な出来事と思い出 |
| 1953年5月 |
S28年 |
0才 |
愛知県東三河地方の農家の二男として生まれる。家は、両親、祖母、2才年上の兄、それから4年後に生まれた妹の計6人の家族構成だった。自宅はまだ藁葺き屋根で、近所の家もほとんど同じだった。今の時代からすると考えられないが、幼少の頃はまだ水道がひかれておらず、自宅の敷地内にある井戸を使っていた。風呂に水をはるだけでも結構大変な作業で、お湯を沸かすのは全て薪だった。プロパンガスなどまだ無かった時代だ。さすがに電気だけは来ていたが、それは家の照明器具用に使っているだけで、電化製品などは何もない時代だった。この頃は家にカメラなどある訳もなく、当時の写真が無いのがなんとも残念だ。兄貴は七五三か何かの時に写真館で写したものがあったようだが、二男以降はまあこんなもんでしょう。(爆)
追記) 2005年3月、所用で従兄弟(いとこ)の家を訪れた際、アルバムを拝見していたら、何と、そこに自分らしい赤ちゃんの写真を発見。見たところ、おそらく6ヶ月〜1才頃の写真のようだった。こんな幼少の頃の自分の姿を見たのは50年以上生きていてこれが初めて。えらく感激してしまった。それにしても我が実家に無い自分の幼少の頃の写真が親戚にあるとは・・・。写真は持っていって良いということだったので、早速、もらってきて自分のアルバムに収めた。
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| 1才頃(推定) |
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| 1958年4月 |
S33年 |
5才 |
5才の頃だったと思うが、自宅から歩いて数分のところにあった保育園に入園する。近所の子供達と連れだって、良く「月光仮面ごっこ」や「まぼろし探偵ごっこ」をして遊んでいた。また、近くの梨畑や柿畑で、断りもせず腹を満たしていたこともあった。(猛省)
一度、この蛮行を父親に見つかり、こっぴどく叱られたことがあった。お仕置きとして、芋などを保存しておく素堀りの深い穴蔵に数時間閉じこめられた。夜中だったので中は真っ暗闇で、ヘビでも出てくるのではないかと、この時ばかりはメチャクチャ怖かった。また、この頃、家には唯一の電化製品である真空管のAMラジオがあり、流れてくる連続小説の語りに、ハラハラドキドキしながら良く聞き入っていた。 |
1960年4月
今から思えば、慎ましやかで貧しい生活だったが、まあ、今のように塾もなく、遊びほうけていた。 |
S35年 |
7才 |
自宅から歩いて数分のところにあった小学校に入学する。全校生徒が100名ほどの小さな小学校で、1学年1クラスだけだった。低学年の頃の記憶はあまりない。家は農家だったので、昼間はほとんど放任状態で、朝から晩までひたすら遊びまくっていた。自慢にも何にもならないが、家で宿題とか勉強をした記憶がない。小学校5年生の時「東京オリンピック」が開催され、この頃、ようやく我が家でも白黒テレビを購入した。貧しい時代だったので、父親にしてみれば恐らく一大決心だったに違いない。テレビのブラウン管の前には観音開きの扉が付いており、テレビを見終わるたびに、この扉を閉めるのが習慣だった。(そのころのテレビはそれほど貴重品だったということです。)
また、同じく小学校5年生の時、校庭でソフトボールの練習中、打球を追いかけていて、近くの桜の大木に激突し、気を失ったことがあった。すぐさま専門病院に担ぎ込まれ、検査の結果、頭蓋骨にヒビが入っているようなことを言われた。でも、なぜか入院することもなく、数日間、学校を休んで自宅で寝ころんでいた。この時は傷の痛みよりも、大手を振って学校を休めることが、無性に嬉しかった。この脳への刺激が功を奏したのか、6年生の時、予期していなかった学級委員に指名されてしまった。(爆)
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| 小6 卒業式にて |
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1966年4月
クラブ活動(テニス)に明け暮れた。プラトニック・ラブもこのころに味わう。 |
S41年 |
13才 |
小生意気なガキになった頃、地元の中学校に入学する。全校生徒は500名ほどだったと思う。1クラス40名もおり、先生に名前を覚えてもらうのが大変だった。可愛い女の子につられて、柄にもなくテニス部に入ってしまう。(爆) こういう卑猥な発想だったせいか、いくら練習してもちっともうまくならず、郡の大会まで行くのが精一杯だった。ちなみに、僕の1年上の先輩と1年下の後輩は、いずれも県大会で優勝していた。だから、僕らの学年は「不作」だったのだ。でも、中学校生活は今考えても一番楽しかった。当時、番長のような生徒はいたが、今のような深刻な状況ではなく、まだまだ清純な生徒ばかりだった。中学3年生になった頃、勉強のし過ぎで仮性近視になる。(勉強のし過ぎ・・・は冗談です。)
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| 中3 体育祭にて |
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1969年4月
ともかく、勉強はそっちのけで、アマチュア無線の交信に没頭する日々を送っていた。 |
S44年 |
16才 |
どの学校に行こうか随分と迷ったが、結局は、担任の先生が勧めてくれた、自宅から電車で1時間ほどの所にあった工業高校の電気科に入学した。近くにも工業高校はあったのだが、あっちのほうがレベルが高いから・・・なんていう理由で、20キロの道のりを延々3年間も通う羽目になってしまった。今から考えると、どうせ勉強しなかったのだから、どっちの学校でも同じだったかもしれない。入学して早々、応援部の上級生に目をつけられ、しつこく入部を迫られたが、そんな気はさらさらなかったので、かたくなに断り続けて何とか難を逃れた。(爆)
運動部にも入る意志はなかったので、一応、ラジオ部とかやらに籍をおいたが、何となく肌に合わず、ほとんど参加することはなかった。でも、無線に興味が無かった訳ではなく、1年生の時、猛勉強してアマチュア無線の免許を取得した。このお陰で?、高校生活の3年間は、おもいっきりアマチュア無線にのめり込んでしまう。今思えば、これが勉強をしなくなった原因だったようだ。でも、高校生活の3年間で、50MHzの周波数帯で1000局との交信を達成したのは良い思い出となっている。2年生の頃より、なぜか電車通学が嫌になり、片道20km近い道のりをひたすら自転車で通った。このほうが何かと気楽だった。3年生になり、急に大学に行きたくなったが、遊びまくっていたので行ける訳もなく、また、家庭の事情などもあって、結局、進学はあきらめざるを得なかった。
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| 高3 修学旅行にて |
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1972年4月
寝ても起きても、山また山、仕事そっちのけで趣味に没頭していた時代だった。 |
S47年 |
19才 |
18才と10ヶ月の若さで一人上京。神奈川県の電気メーカーに入社する。この頃、まだ遊び足らず(爆)、仕事もそこそこに山岳クラブに入り、次第に山のとりこになる。正月など普通は実家に帰省するものだが、そんなこともなく、ひたすら山に通い詰める。そうこうしているうちに、24才の頃より山岳クラブの山行リーダーを任されるようになっていた。やりがいはあるものの、相応の責任も生じるので、精神的には結構しんどかった。7年間の山行で3度ほどあの世に行きそうなやばい経験もしていたのだが、心配をかけるので親には一切言わなかった。また、山とは別に当時の僕にはもう一つの夢があった。それは海外で仕事をしてみたいということだった。この為、24才の頃より本気を出して英語の勉強を始め、26才の誕生日を迎える少し前に、当時はまだまだ狭き門だった海外駐在のチャンスをつかんだのだった。
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| 19才 谷川岳にて |
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1979年5月
今から考えても、世界を股にかけて(というのは冗談ですが)楽しくて良い時を過ごすことができた。 |
S54年 |
26才 |
25才と11ヶ月で、当時の西ドイツのデュッセルドルフ市に赴任する。赴任先では、自費でドイツ語学校に通ったが、英語もままならない状態では頭の中が混乱するのみで、結局はドイツ語学校は辞めてしまう。その代わりという訳でもないが、日本との間の通信教育で工業英語などを勉強していた。と、ここまでは、さも勉学青年のようなことを書いてしまったが、決してそんなことはなく、独身の利点を活かして、休日を利用しては、気ままな旅に明け暮れていた。駐在期間中の前半の2年ほどは、日本の某商社の現地事務所内に籍をおいていたので、ゴルフはこの頃に教わった。ドイツは比較的緯度が高いので、夏場は夜の10時過ぎまで日が落ちない。このため、会社の仕事が終わってからでも充分1ラウンドまわることができた。プレー代も3千円〜5千円程度なので、決して贅沢な趣味という感じではなかった。また、ドイツのゴルフ場はキャディー無しが普通なので、自分でカートを引きながらのラウンドは結構気楽で楽しかった。仕事のほうは西欧すべてが僕のテリトリーだった為、かなりの頻度であちこちの国を飛び回っていた。中にはイ・イ戦争が勃発して間もない頃にイラク出張を命ぜられたり、8月の真っ直中に灼熱の国リビアに行かされたりもした。それなりに色々な苦労もしたのだが、駐在期間中、数多くの貴重な体験ができたことが僕の財産になったことに間違いはない。この機会を与えてくれた当時の諸先輩方にはほんとうに感謝している。
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| 26才 スペインにて |
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1983年6月
何となく目的意識を失ったような漠然とした数年間だった。 |
S58年 |
30才 |
5年間の駐在予定だったが、人恋しくなり、自ら申告して4年間で帰国する。日本にいる友人が軒並み結婚し、少々焦っていたのかもしれない。帰国後は出身部署の設計部門に配属となり、パソコンやECRの開発に携わる。パソコンの設計は結構楽しかったが、1モデル商品化したところで、会社の状況が変わり、そのプロジェクトは解散となってしまう。 |
1986年9月
とにかく冷や汗もんでした。(爆) |
S61年 |
33才 |
結婚は半ばあきらめかけ、開き直る一歩手前の状態だったが(爆)、運良く赤い糸を見つけ、33才と4ヶ月で結婚する。もちろん、今の家内だが、社内結婚かつ10才も年下だったことで、当時の同僚からは、ねたみを伴って犯罪者呼ばわりされたが、ひたすら耐えた。(爆)
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| 33才 NZにて |
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1987年8月
心機一転、人生再スタートを決め、黙々と仕事をした。 |
S62年 |
34才 |
ドイツから帰国し既に3年以上が経っていたが、純粋な設計技術者として自分を見た場合、海外駐在の期間が逆にブランクになっているように感じ始めていた。もう少し海外での経験が生かせそうな職場に配置転換を願い出ようかとも思っていたが、それにピッタリの職場はなかなか無かった。それと、これから出来るであろう自分の子供は、できれば自然豊かな地で育てたいという思いもあって、15年4ヶ月もの長きに渡ってお世話になった会社を依願退職し、田舎にUターンすることにした。当時、家内は6ヶ月の身重だったので、随分と負担をかけてしまったが、幸いにしてお腹の中の子供は順調に育ってくれているようだった。地元では大手の会社が新規事業として始めたばかりの小さな会社に入った。これが今も身を置く業界に入るきっかけとなる。
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| 34才 |
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1988年1月
とにかく辛い時だった。 |
S63年 |
35才 |
1月3日に長男(たかくん)と二男(のりくん)が生まれる。既に双子だとはわかっていたのでビックリはしなかった。長男は順調に生まれ産声を聞くことができたが、二男は難産で産声を聞くことはなく集中治療室に入ってしまう。そして、あろうことか、この二男は生後3日で他界してしまう。この予期せぬ出来事に、僕は金槌でおもいっきり頭を殴られた思いだった。そうとは知らず、まだ入院している家内に、この出来事を告げなければならないことがものすごく辛かった。病院の一室を借り、意を決して告知したが、しばらくは家内が心配だった。でも、彼女は持ち前の精神力で良く頑張ってくれた。その後、長男は順調に育ってくれ、このことが傷ついた僕と家内の心を随分と癒してくれた。 |
1989年6月
我が家がパッと明るくなり、生き甲斐を感じる日々だった。 |
H1年 |
36才 |
6月に三男(あっくん)が誕生する。お兄ちゃんは僕にそっくりの顔立ちだが、あっくんは母親似で、同じ兄弟なのに不思議なもんだとつくづく思った。子供達が成長するにつれ、兄弟喧嘩も激しくなるが、でも、この頃は毎日がすごく楽しくて張り合いがあった。休日には家族全員で良く遊びに出かけていた。 |
1993年1月
子供が小さかったので、単身赴任は結構身にこたえた・・・。 |
H5年 |
40才 |
バブルが崩壊した影響で、勤め先の会社が廃業となる。倒産ではなく1年ほど前に通告されていたので、うろたえることもなく、冷静な気持ちで就職活動ができた。結局は大手の同業社にご厄介になる。だが、通勤圏内にこの会社のブランチは無く、単身赴任を覚悟する。子供がまだ5才と3才だったので、2週間に1回の帰宅は結構辛かった。家に帰宅した時は、子供達が僕の車の音を聞きつけて、「あ!お父さんが帰ってきた!」と家から飛び出してくるので、この時ばかりは無性に嬉しかった。しかし、赴任先に出かける時は常に後ろ髪を引かれるような複雑な思いだった。勤務先の居心地はまあまあ良かったのだが、単身赴任の寂しさに耐えきれず、結局は丸2年勤めたところで依願退職する。
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| 41才 東京にて |
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1995年1月
心機一転、仕事も私生活も結構頑張った時代だった。 |
H7年 |
42才 |
当時、僕が身を置いていた業界で生計を立てようとする限り、故郷での仕事は皆無だった。かといって独立するほどの資質もないので、一大決心をし、故郷を去ることにした。自宅も売り払って、今住んでいる千葉県下に家族全員で移り住む。仕事は近くの同業社にご厄介になる。1997年には今住んでいる自宅も購入した。こんなことで、我が家の長男には4年間で小学校を3回も転校させてしまった。仕方のないこととはいえ、今でも申し訳ないことをしたと思っている。でも、子供の環境への順応は早く、二人とも毎日笑顔で学校に通ってくれた。僕は家族と一緒に暮らせる安堵感からか、1997年(44才)の頃には、肥満(78kg)もピークに達していた。
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| 44才 千葉にて |
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1998年3月
これまでの人生の中で一番辛い年だった・・・。 |
H10年 |
45才 |
実は、この年に起こった出来事は人様にはあまり話したくないのだが、自分の半生を綴る限り、触れない訳にもいかない。愛する我が家の長男(たかくん)が突然、他界してしまったのだ。10才と2ヶ月(小4)の若さだった。原因は無菌性脳炎、1億円の宝くじを当てるほどの確率の病気だった。逝く2週間前には、家族でスキー旅行を楽しんだばかりだったので、まったく青天の霹靂だった。発症してから、わずか1週間で逝ってしまった。次第に意識が無くなり、病床ではほとんど話もできなかった。この想像だにしていなかった出来事に、家族全員呆然とした。入院中、心の中で神様に祈っていたが、神はなんてひどい仕打ちをするのだろうと、随分と神を呪った。家族に隠れて幾度となく男泣きもした。過去、双子の二男(のりくん)を亡くしているだけに、二人ともいなくなってしまったことが無性にくやしかった。いけないことだが、幸せな家族を見ると、正直恨めしくもあった。でも、涙も涸れた頃、僕は悟った。人生は長さじゃない、中身が大事なんだと。そう悟らないと、とても現実を受け入れられないし、生きていく気力も湧いて来なかった。こうして、この出来事を書いていると、今でも止めどもなく涙が溢れてくる。どうしようもない。だから、ほんとうはあまり書きたくはない。(もうすっかりリカバリーしていますので、変なお気遣いは無用です。) |
2000年2月
PCとホームページに没頭する日々を過ごした。 |
H12年 |
47才 |
遊び半分でこのホームページを立ち上げる。半年ほどはネタもあったので、それなりに楽しかった。その後はネタ探しに何かをやるという本末転倒な生活をしばらく続けた。1年もすると、すっかり飽きてきたので、普段の生活に戻ることができた。ホームページを開設して、色んな友達と知り合えたことが一番の収穫だった。ホームページを開設する少し前の1999年11月(46才)頃よりダイエットを始めた。理由は風呂の鏡に映る自分の姿を見て、自分で気持ち悪いと思ったからだ。(爆)
すべて独力でダイエットのメニューを決めて、結構つらい日もあったが、山で培った忍耐で初心貫徹を貫き通した。そのお陰で、2001年4月(48才)には13kgほどの減量に成功し、だいぶ身軽になり、スーツも1サイズ小さいものが着られるようになった。下の写真は減量後(65kg)に撮影したものです。
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| 48才 大阪にて |
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| 2002年6月 |
H14年 |
49才 |
1972年4月(19才)から会社勤めを始めたので、この4月で丸30年のサラリーマン生活が経過した。長かったような短かったような、振り返れば、波瀾万丈な人生を歩んで来たようにも感じる。30年ということがきっかけではないが、この6月末で勤めていた会社を退職した。さして目的もなかったので、この無謀な行動に周りからは色々と言われたが、ともかく、今までの人生の垢を落として、新たな出発をすることにした。 |
| 2002年8月 |
H14年 |
49才 |
朝起きて、会社に行く必要がないというのは、とっても楽しいもんだ。一月ほど好きなことをしていたが、せっかくなので、まだ行ったことのない北海道を一人旅することにした。2週間かけて北海道を一周した。その時の紀行はこちら。この旅では、一人で色んなことを考えることができたし、良い旅だった。 |
| 2003年4月 |
H15年 |
50才 |
家族を持った世帯主であるにも関わらず、9ヶ月も無職でいると、さすがに落ち着かなくなり、そろそろ再出発せねば・・・と色んなことを考えていた。起業も考えていたが、今ひとつ勇気が沸かず、今まで身を置いていた業界で、再びサラリーマン生活に戻ることにした。 |
| 2006年5月 |
H18年 |
53才 |
気がつけば既に53才・・・。情けないが、年々、体力の衰えを感じる。昨年9月に頸椎椎間板ヘルニアが発症、知らず知らずのうちに長年の負担が蓄積し、一気に吹き出したのかもしれない。今年の5月後半より、これが原因により、激しい肩の痛みに襲われ、数週間は生きた心地がしなかった。治療の末、この危機は脱したが、引き続き、首に爆弾を抱えての生活である。プール等でリハビリを行っていることが功を奏したのか、体重は67kg前後と、ほぼベストに近い状態が維持できている。 |