天空の鉱山町・小串硫黄鉱山
アチャとダンベの国境(毛無峠)
その4
Visited : 2007/10/28
Update : 2007/10/30
ひっそりと残る回旋塔
(画像上をクリックすると拡大画像が表示されます)
 腕時計をみると時刻は9時半だった。鉱山跡の探訪を始めて既に1時間半が過ぎていた。お昼にはここを出発し帰路につきたかったので、元の場所へ戻ることにした。鉱山最下部からボタ山の脇を登っていった。

 すると、左前方に、この地の象徴として良く使われている回旋塔の残骸を見つけた。実はある方のウェブで、これが無くなっていたと書かれていたので、もう無いものだと思いこんでいたが、その情報は正しくなかった。でも、出会えて良かった。年甲斐もなく感動してしまった。
 当時の地図からすると、このすぐ上側に小中学校があったはずだ。昭和46年(1971年)に閉山しているので、既に36年もの月日が経っている。冬は豪雪に覆われるこの地において、良く残っているものだと感心する。でも、小中学校の痕跡はまったく残っていなかった。

 回旋塔の横にザックをおろし、しばらく眺めていた。過酷な自然の中で、今でも原型のまましっかりと立っている姿を見ていると、今を生きる我々に何かを訴えかけているように思えてならない。
この辺りに小中学校が有ったのだろう・・・
(歩いているのは同行した友人)
廃屋
 途中で屋根だけが残る廃屋に出会った。位置的には小中学校が有った辺りだろうか・・・。中を覗いてみたが、何の建物だったかを特定する痕跡は見あたらなかった。
 ボタ山の窪地に1台の白い車が捨てられていた。右の写真の真ん中辺りにある白い車がそれだ。車種からして当時の車ではないことは明らかだ。誰かが不法投棄したものであることは間違いない。おそらく、上の台地から突き落としたのだろう。世の中には心無い不届き者がいるものだ。
鉱山跡中央付近
おそらく集落跡だろう・・・
 集落があった付近は、ほとんどその痕跡を残していない。家の基礎に使われていたのではいかと思われる石が、数ヶ所あるのみだった。

 ピーク時に2,100人もの人々が住んでいたそうだが、それだけの人々が住んでいたと思わせる痕跡は確認できなかった。もしかすると、長い歳月の間に土砂に埋まり、地形が変わってしまっているのかもしれない。
 10時10分、鉱山跡を一周して元の場所に戻ってきた。探訪を開始して既に2時間近くが経過していた。 
入口の広場
毛無隧道入口
 一通りの探訪は終わりだが、一つだけ心残りがあった。それは毛無隧道の入口をまだ発見できていなかったからだ。持参した当時の地図をもう一度みて、周りの景色から隧道入口の位置を確かめる。

 それを元に、10分ほど探し回った。もう埋まってしまっていて発見は難しいのかな? と諦めかける寸前で、隧道の入口を発見した。横には案内板が立っていたが、道路からは全く見えないので、知らない人は気づかないだろう。
 隧道入口はすでに半分崩落したような状態で、入口にはめられていたと思われる木枠のみが、その存在をかろうじて残していた。この隧道の全長は1332メートル、昭和28年に完成しているので、既に54年もの月日が経過している。

 重機も無い当時の掘削はさぞや大変だっただろうと思う。毛無峠の直下を通って、長野県側に繋がっている。厳冬期の毛無峠は至るところ雪崩の巣であり、峠越えもままならなかっただろうが、この隧道が完成したことで、ずいぶんと安心して往来できるようになった筈である。
毛無隧道入口
毛無隧道入口とトロッコの線路
 また、この隧道を掘削中、良質の硫黄鉱脈を発見したそうで、坑道としての役目も果たしていた。それを示すように、坑道入口から手前にトロッコの線路が残っていた。

 人々は、このトロッコの線路脇を、身をかがめながら歩いていたそうである。

 またこの隧道は長野県側の入口と群馬県側の入口の位置(標高)が8m程違うように造られているそうだ。理由は、聞くところによると、坑道内の有毒な廃液をすべて群馬県側に流せるようにする為らしい。 
 当時、長野県側では、硫黄鉱山が出す水質汚染が問題化していたそうで、それを避ける為に群馬県側に流していたらしい。ほんとうだとすると、群馬県の住民の健康は無視されたということになるが、真偽のほどは定かではない。
トロッコの巻き上げ装置か?
その5
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