2001年5月26日 作成
南アルプス 塩見岳 (正月合宿)
その2
1973(S48)年12月28日〜1974年1月2日
12月28日 新宿23:45発(夜行列車)
12月29日 伊那大島09:30〜(バス)〜鹿塩11:00〜塩川小屋14:30〜幕営地着15:35 (幕営)
12月30日 起床03:30/三伏小屋07:05〜三伏峠小屋11:00〜三伏小屋12:40 (小屋泊)
12月31日 起床05:00/三伏小屋06:40〜天狗岩コル10:30〜塩見岳(3046m)11:55〜塩見小屋13:40〜三伏小屋15:30 (小屋泊) ※天狗岩コル〜塩見岳はアタック隊のみの行動。
01月01日 起床08:00〜烏帽子岳(2726m)へ散策〜三伏小屋 (小屋泊)
01月02日 起床03:30/三伏小屋06:35〜塩川小屋08:25〜鹿塩10:20〜(バス)〜伊那大島〜立川18:52
塩見小屋より塩見岳を望む
 今日は大晦日だ。5時に起床し、アタックザックに必要なものを詰め、6時40分に小屋を後にした。日帰りの荷物なので足取りも軽い。しかし、小屋から稜線に出るまでのルートは、顔までの深雪で、仲間が見えなくなる程のもの凄いラッセルを強いられる。夏なら30分もかからないところを、1時間半も費やして、ようやく稜線にでる。ここでワカンをデポし、あとは快適にピッチを進めた。3ピッチ、2時間ほどで天狗岩のコルに到着する。ここまでくれば、もう塩見岳は目前だ。

 天狗岩のコルで小休止していると、南の空に悪天候を予感させるような嫌な雲がかかってきた。標高も高いので風も強い。塩見岳の頂上を仰ぎ見ると、雪煙が舞い上がっている。「早く行こう!」と思っていたそんな矢先、リーダから思わぬ提案を聞くことになる。それは、ここからのルートは岩峰の連続で危険であり、天候も気がかりなので、数名のアタック隊を編成して登頂しようという内容だった。

 提案といっても、リーダが言えば、ほぼ決定に近い。僕は黙って成り行きを見守った。結局、3名がアタック隊のメンバーとして登頂を目指すことになった。残念ながら、僕はその中に入っていなかった。この突然の決定に、僕は「どうして?」、「何のためにあの苦しい荷揚げをしたの?」と、心の中で葛藤した。でも、自分の感情はあえて表には出さなかった。それは、リーダがいつになく用心深くなっている理由が判っているからだった。

 それは、さかのぼること10年ほど前の出来事であるが、今、我々の目前にあるこの岩峰で、我が会の女性メンバー1名が転落し、尊い命を失っていたからである。この山行にあたり、多分、会の長老達からは、様々なアドバイスや注意があっただろうし、そういうものを背負っているリーダーの胸の内もなんとなく判っていた。だから、僕は自分の気持ちを押さえたのだった。「時にはこういうこともあるんだ」と、自分に言い聞かせながら塩見小屋まで引き返し、ここでアタック隊の帰りを待つことにした。彼らを待つ間に、僕らは遭難現場の谷に向かって黙祷を捧げた。

 2時間ほどして、アタック隊が帰ってきた。無事登頂したとのことであった。一応、登頂の喜びは祝ったものの、僕は感激することもなかった。その後、三伏小屋に帰り、この日の行動を終えた。一応、登頂は果たしたので、この日の夜は朝の3時半頃まで騒ぎながら夜更かしをした。幸いにして、燃料(石油)のほうは、荷揚げ分の18リットルと、今回持参した3リットルの併せて21リットルもあったので、24時間ラジウスを炊き続けても、石油が足りなくなるということはなかった。特に冬山で充分な燃料があるということは心強い限りだ。

 明けて新年を迎えたが、前日の夜更かしがたたって、起きたのは8時頃だった。今日は自由行動ということになっていたので、僕は適当に食事を済ませ、同僚数名と烏帽子岳まで散策することにした。幸いにして外は快晴だ。こんな素晴らしい天気なのに、寝ていてはもったいないし、前日のモヤモヤを吹っ飛ばす為にも、「頂」に登りたかった。そして、烏帽子岳山頂では素晴らしい景色がひろがっていた。こうして、僕の塩見岳挑戦は終わったのである。

編集後記
 この山行からちょうど5年後の1978年12月31日、僕は会のリーダーとして、後輩5名を含む総勢8名にて、再びこの塩見岳に挑戦することになる。

烏帽子岳に向け三伏沢を登る(後が私)
烏帽子岳をバックに(向かって左が私)
烏帽子岳山頂より荒川岳(3083m)方面を望む
烏帽子岳山頂より富士山を望む(私)
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